ちいさな声2023.12.02どうして戦争反対なの? ポスト シェア はてブ 送る Pocket 「どうして戦争反対なの?」 鈴木なりさの思いのひとつに 「これからも戦争反対」を掲げています。 さまざまな理由からこれを掲げていますが そこに至るわたしの個人的な話をひとつ。 わたしの祖母について。 (以下は過去のブログから引いてきています) ーーーーー 関連記事戦後77年の夏・祖母の記憶・もしもを思う2022.08.07 亡くなった祖母は原爆が落とされた長崎にいた。離島にいたため直接深刻な被ばくはなかったと本人は言っていたが、晩年祖母の身体は様々な癌に侵され、何度も手術と入院を繰り返した。 私は幼い頃から、祖母と親族一同で8月に長崎に帰省した。かげろうがゆらぐ酷暑のなか、長崎平和祈念像の前に立つ。片手は水平に、片手は垂直に上を指した像。長崎原爆資料館にも行く。笑えるような場所じゃないことは幼くとも分かる。うっすらだけ目を開けて息を止め、足早に資料館を回る。 それを、毎回、毎年、毎夏。 今なら、そこへ何度も連れて行かれた理由が分かる。 私は「はだしのゲン」を何度も何度も図書館でめくる小学生になり、福島第一原発に足を踏み入れる大学生になり、祖母の記憶を記憶する人になった。 祖母は私が幼いころから晩年まで、何度も何度も、戦後の暮らしがいかに苦しかったかを話した。父親は戦争に行って帰ってこなかったこと。そのせいで、「ててなしご」(父無し子)と呼ばれいじめを受けたこと。戦後は栄養失調で目が見えなかったこと。眼鏡を買うお金もないから目の前を通る人が友人だと気づけず、仲違いしたこと。顔のやけど痕は、預けられた親族によって付けられたこと。幼い弟を栄養失調で亡くしたこと。母親は内職で稼いだが、だんだんとアルコール中毒になって手が付けられなかったこと。それでも栄養士の学校に行きたくて役所で働いてお金を貯めたこと。地元の猛反対を押し切って東京に出たこと。東京に出てからも早朝も深夜も働きづめで、ずっとずっと貧乏であったこと。 あれもなかった、これもなかった、だから、家族を大事に。友達を大事に。人を大事に。 栄養士の資格を持った祖母による手の込んだ料理がずらりと並ぶ静かで快適な食卓に座って聞く凄惨な過去は、あまりに目の前の現実とかけ離れていて正直聞いているのがつらい時のほうが多かった。あの辛さはなんだ。私に分かるわけないのに、当時の祖母の慰めもできないのに、なんで私にそんな話をしてくれるんだろうという、居心地の悪さからくるうっすらとした怒りであったかもしれない。私は未熟だった。それでもなんとか、今その時に聞いておくべきことなのは分かっていて、さえぎることなく、何度でも聞き続けた。何度も聞かないと、今そらで言えるくらいにはならなかったと思う。何度も聞かせてもらって、よかった。 長崎の原爆が落とされたとき、祖父は、小倉にいた。 もし、長崎の原爆が小倉に落ちていたら、祖父はこの世からいなくなっていた。したがって私が私のままこの世にうまれるということはなかったんだろう。もしもなんてないけれど、そのあと、長崎に落とされて、そこには祖母がいた。このことをぐるぐると考えてしまう。 まだ人間は戦争をしている。原発は再稼働している。 忘れないでいよう、覚えていよう、文章に残そう、語れるようでいよう、と思う。
亡くなった祖母は原爆が落とされた長崎にいた。離島にいたため直接深刻な被ばくはなかったと本人は言っていたが、晩年祖母の身体は様々な癌に侵され、何度も手術と入院を繰り返した。
私は幼い頃から、祖母と親族一同で8月に長崎に帰省した。かげろうがゆらぐ酷暑のなか、長崎平和祈念像の前に立つ。片手は水平に、片手は垂直に上を指した像。長崎原爆資料館にも行く。笑えるような場所じゃないことは幼くとも分かる。うっすらだけ目を開けて息を止め、足早に資料館を回る。
それを、毎回、毎年、毎夏。
今なら、そこへ何度も連れて行かれた理由が分かる。
私は「はだしのゲン」を何度も何度も図書館でめくる小学生になり、福島第一原発に足を踏み入れる大学生になり、祖母の記憶を記憶する人になった。
祖母は私が幼いころから晩年まで、何度も何度も、戦後の暮らしがいかに苦しかったかを話した。父親は戦争に行って帰ってこなかったこと。そのせいで、「ててなしご」(父無し子)と呼ばれいじめを受けたこと。戦後は栄養失調で目が見えなかったこと。眼鏡を買うお金もないから目の前を通る人が友人だと気づけず、仲違いしたこと。顔のやけど痕は、預けられた親族によって付けられたこと。幼い弟を栄養失調で亡くしたこと。母親は内職で稼いだが、だんだんとアルコール中毒になって手が付けられなかったこと。それでも栄養士の学校に行きたくて役所で働いてお金を貯めたこと。地元の猛反対を押し切って東京に出たこと。東京に出てからも早朝も深夜も働きづめで、ずっとずっと貧乏であったこと。
あれもなかった、これもなかった、だから、家族を大事に。友達を大事に。人を大事に。
栄養士の資格を持った祖母による手の込んだ料理がずらりと並ぶ静かで快適な食卓に座って聞く凄惨な過去は、あまりに目の前の現実とかけ離れていて正直聞いているのがつらい時のほうが多かった。あの辛さはなんだ。私に分かるわけないのに、当時の祖母の慰めもできないのに、なんで私にそんな話をしてくれるんだろうという、居心地の悪さからくるうっすらとした怒りであったかもしれない。私は未熟だった。それでもなんとか、今その時に聞いておくべきことなのは分かっていて、さえぎることなく、何度でも聞き続けた。何度も聞かないと、今そらで言えるくらいにはならなかったと思う。何度も聞かせてもらって、よかった。
長崎の原爆が落とされたとき、祖父は、小倉にいた。
もし、長崎の原爆が小倉に落ちていたら、祖父はこの世からいなくなっていた。したがって私が私のままこの世にうまれるということはなかったんだろう。もしもなんてないけれど、そのあと、長崎に落とされて、そこには祖母がいた。このことをぐるぐると考えてしまう。
まだ人間は戦争をしている。原発は再稼働している。
忘れないでいよう、覚えていよう、文章に残そう、語れるようでいよう、と思う。