これはちょうど1年前の秋に参加した、聖書を読む会のおはなし。
当時の日記より引用です。
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昨夜は二週間に一度の、聖書を読む会だった。通称、Bamboo Bible会。この会に出会ったのはほんのつい最近で、オンラインで知り合った大学の教授夫婦に紹介されておずおず参加してみたのが二週間前。今回が二度目の参加だった。
私はこの会のことをすごく気に入っている。まず、この世界状況になってからというもののどこに注意を向けても否応なしに入ってくる情報の渦に飲み込まれてしまいそうで、というかたぶん身体のほとんどを情報の湖にどっぷり浸したまま一日を過ごすような身重感であったので、このような日々に祈りの時間をつくるなど到底むりなことだった。私には特定の宗教はないけれど、キリスト教の礼拝が特に気に入っている。中高6年間は毎日学校で礼拝を受けていたし、昨年のクリスマスもICUの礼拝堂で賛美しながら時を過ごした。だから、祈る時間の豊かさは身をもってわかる。祈りたいとも思う。でも、自粛要請とかBLMとか国とか政治とか人種とか差別とか不平等とか不公平とかを考えざるを得ないなかで「祈れない」息苦しさを生きていた。
話がすこし逸れるかもしれないけれど、祈る時間はどうして豊かなのだろう。ひとつは自意識からの解放にあると思う。私たちは社会で生きるなか、家の一歩外に出たら自意識から逃れられない。どう思われているだろうか、今の発言だいじょうぶだろうか。トイレの個室でも他者からみた自分のことがきになって仕方ないことってある。前髪の向きひとつを四六時中気にしていた高校生の時のじぶんは、今も心の中に棲み付いている。祈る時間は、そんな自分が解放される気がする。自分と神さまとか、自分と聖句とか、自分と祈りそのものとか(その対象は人それぞれでいい)の一対一の関係になって、ようやくストンと自分の足で地に立てるような気がする。ようやく、「自分を見ていない自分」に出会える気がする。他者を支点にして生きるしかない私たちに、一日のうちの数分でも、自分自身にintoする時間、立ち返る時間があることはどこまでも救いだと思う。
今回のBamboo Bible会で取り上げた箇所はルカによる福音書15章11ー32節、放蕩息子とその父とその兄の話だ。聖句を朗読して、いくつかの設問について言葉を交わしていく。放蕩息子についての話はあまりに有名だからここでは端折るけれど、この話が99匹の羊と1匹の羊の話や、9枚の銀貨と1枚の銀貨の話や、もっと視野を広くすると律法学者と取税人の話、さらにはこの世のルールに生きる人と失われた人々の分断の話にまで繋がっていて、まさに今の世界情勢を捉えた箇所のように思えて鳥肌が立ってしまった。私はきっと「この世のルールに生きる人の側」に生かされているけれど、例えば性差別の文脈では「失われた人々の側」に立つこともままある。両方の性質を時と場合によって併せ持つと認識している人はどれほどいるだろう。認識していないとどのようになるのだろう。今の世界情勢がその答えを教えてくれている気がしてならない。
Bamboo Bible会をおえて、最近の自分のテーマは<回復と解放>なのだなとふと気づいた。私の恋人は気づく人だ。いろいろなことをつぶさに見ていて、気づく。私は恋人に、呼吸が浅くなっていることや手のひらに汗をかいていることを教えてもらってはじめて自分の心模様に気づくことが多々ある。そうしてこのごろは、呼吸に気を配ることがぐんと増え、だんだんとそれが習慣にまでなりはじめた。呼吸はいろいろなことを教えてくれる。焦っているときは浅くなり、急いでいるときは早くなり、怒っているときは小さくなり、落ち着いているときは深くなる。祈るときに呼吸を早める人は少ないんじゃないかな。だから、呼吸に意識を集中して落ち着くことには、祈りと近い効用があるように思う。最近はヨガに心を惹かれているのだけど、ヨガもまた呼吸で、呼吸を通じて自分と地面、自分と地球の一対一になれるものだと思う。ヨガがおわったとき、祈りがおわったような気持ちになって、すっかり自分のことを気に入るようになっているから不思議だ。
p.s.
Bamboo Bible会の最初に紹介された言葉。
『あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよ』
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ハロウィン終わった翌日からすっかりクリスマスムードでちょっとおもしろいね。
クリスマス、近所の教会で礼拝を受けるのもとってもおすすめです。高い天井にしずかな人々に祈りの言葉に讃美歌!私はICUの教会に行こうかなと考え中です。信者でなくとも、快く受け入れてくれますよ。
Have a good day!
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