気づけば新幹線に乗っていた。
時は2020年12月。
「どうしても行かなくては」と心がざわついて仕方ないお店が京都にあった。店の名は『楽天堂』、豆とスパイスを中心に販売する食料雑貨店である。『楽天堂』を運営する店主の千晶さんのTwitterを見つけてからというもの、この方に会わないといけないと直感した。
京都へ、一人旅
初めての京都への道中はいやに空いていた。世情を鑑みれば当然かもしれない。想像と違って寂し気な京都駅に降り立ち、先を急ぐ。京都駅から三駅先に、『楽天堂』はあった。
店主の千晶さんに挨拶する。快く迎え入れてくださって、ほっとする。
もうすっかり日が暮れていて店じまいのあとだったので、翌朝、お店を見せてもらった。
写真で見るよりさらに小さく感じる店内。京都の伝統的な町家の自宅の一部をお店として、千晶さんは商いをしている。扱っている商品は様々な種類の豆やスパイスや生活用品など。商品棚は整理整頓され、商品説明のポップが並び、ぎっしりと見ごたえがある。店の目の前は生活する人々が行き交う道。たまに車も通るが、徒歩の人と自転車がほとんど。じっくりと商品を見て回る間にもお客さんはやって来る。自転車で野菜を持ってきた人がきて、近所の常連さんがそれを買っていき、日ごろの不満をひとつふたつ話して、まあうまくやっていきましょうと励ましあって、「おおきに」といってわかれる。
店のまとう空気の、そこに交わる人々の、あまりに生き生きとした様に圧倒されてしまった。開発によって住宅街のずらっと並んだ千葉県の都市めいた場所に育っただけの私にはそれが眩しすぎた。
店が、呼吸をしている。
来ている人も、何と言ったらいいのか、不器用で、誠実で、生々しい。
温度のある人間のかかわりあいがそこにはあった。
東京に帰ってきてからもぼんやりと考えて、そうか、じぶんの手の届く範囲で商いをしている、そのことによる生々しさなのだ、ということが、だんだんとわかってきた。
↑『楽天堂』の隣にあるゲストハウスに宿泊させてもらった。ここは化学物質過敏症の方にもひらいている場所で、澄んだ空気のもと寝泊まりができる。これもまた千晶さんご夫婦が経営されている場所だ。
「ちいさな仕事」をして生きていくこと
千晶さんには京都にいるあいだに、自分はこれからどんな風にしごとをしていこうかと悩んでいると相談させてもらっていて、その時に「ちいさな仕事」という言葉に出会った。
「ちいさな仕事」をして生きていくこととは、
自分の手の内におさまる範囲で、
自分が責任を持てる仕事をしていくことだと、
自分なりには理解している。
やることを自分で決める。
やらないことを自分で決める。
何時から何時まで働くのかを自分で決める。
なにを大事にするのかを自分で決める。
こういう、一見あたりまえのことも、大きな組織にはいるととたんむずかしくなるだろう。責任は自分ではないだれかがとってくれてしまうかもしれないし、大きな組織として大事にすることは自分が大事にしたいことと一致しているとは限らない。
「ちいさな仕事」をしていると責任の矢面に立つのがまっさきに自分になるだろうし、いろんなことを常々考え続けないといけないだろう。それでもこっちのほうがずっと、人生が自由なのではないかなと思う。大学時代に大きな企業でインターンをしたりNPOでボランティアをしたりしながらも自分の居場所をいまいちしっくりと見つけられなかった自分にとっては、「ちいさな仕事」が、近い未来に風が吹くような発見だった。
自分の手の内におさまる範囲で、
自分が責任を持てる仕事をしていくこと。
一見難しいようで、
たぶん実際もかなり難しくてめんどうで複雑で、
でも、とんでもなく自由な、「ちいさな仕事」。
実際に「ちいさな仕事」を20年以上前(!)から続けられている、人生の先輩のように思う千晶さんとの出会いは、京都旅から少し経ってから、自分でお店をはじめてみるところにつながってくるのでした。
この人に会わないといけないという直感を信じてよかった。人生を勢いよく方向づける出会いというのを、身体は実によく知っていたりする。
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